劇場版AIR感想

※昔書いたものをコピペで載せてます。


劇場版AIR
3月中旬までしか上映しないみたいなので、ようやく観にいった劇場版AIR
周りの評判や批評はシャットアウト、信ずるべきは己のみという信念の元、ようやく観にいくことができた劇場版AIR。TVアニメ版の出来は神レベル、さて、劇場版の方は?ということで、微かな不安と期待を背負って観に行った劇場版AIR


なにも、俺はTVアニメ版ほどのレベルを求めていたわけじゃない。たかだか90分程度の作品で、あれ以上に『AIR』という作品を表せるはずが無いことは自分でも解っている。
原作に忠実な世界観、表現に徹したTVアニメ版。劇場版では、監督、そして脚本家が原作を実際にプレイし、それぞれが感じた世界観を90分という限られた時間の中で、【ある程度の良識、そして観察眼を持って】二次創作的に表現している物だと思っていた。……思っていたよ……。


俺は感じるべきだった、公式サイトの『物語』の内容を読んだ時点で、原作者の意図や伝えたかったこと、世界観をまるで反映していない、イキスギな二次創作。愚劣であざとい、制作者の信念の欠片も無いどこにでもある五流恋愛劇に堕ちてしまっているのだという事を。


■酷い内容
俺は、上映開始30分であまりの内容の酷さに会場を後にした。そこまでするほど酷すぎた……。
【2月23日水曜日の池袋、午後2時20分からの上映】、開始30分で会場出ていったのは俺です。原作ファンであればあるほど目も当てられないと思う、そこにあったものはハリボテの人形劇だった。


開始10分で脚本家の底が知れた、ご都合【だけ】の愚劣極まりないオリジナル設定。
原作であったキャラ同士の複雑で微妙な関係、そして過去を彷彿とさせる性格は全て無かったことにされ、何の思慮も感じられない台詞を、何の過去も感じさせないキャラがただ喋らされてるだけのよく解らない話に。


往人さんの人形劇で最初から子供が笑いまくり、晴子さんは何の迷いもなく観鈴ちん大好きオーラを周囲に振りまき、ぐれた中学生みたいな台詞を吐き出す往人さんに、柳也様ラヴな神奈が活劇の主役のような台詞を吐く柳也に心ときめかす。
何故かテレビの中でポテトが走り回り、常時がおがおTシャツ装備な観鈴ちんが、『私達、恋人同士だと思われたかな?』とかかなりの勢いで世迷言を言い出す始末。挙句の果てには、最初から空飛びまくりの【そら】が出てきていたが、もう突っ込む気にすらなれない…。


一体誰なんでしょう彼女達は?曲がりなりにも公式に『劇場版AIR』を名乗っているのに、この内容はいくらなんでも酷すぎるのでは……。


アレは AIRをプレイしたことが無い人間が、表面上の話の流れだけを【他人に聞いて】、『こんなところに感動したんだろ?』と、俗世間が泣けそうな要素だけをすっぱ抜いた中に、【AIRの登場人物の容姿をした人形】を配置して、思慮の欠片も無い台詞を好き勝手言わせているだけの言いたいことも伝えたいことも何も無い、ハリボテの人形劇。


ハッキリ言ってここまで酷いものだとは思わなかった。
二次創作的シナリオをやるとしても、もう少しマシなものだと思っていた。
これで【監督は実際に原作をプレイ済み】とかいわれても、説得力の欠片も無いどころか、『お前には読解力というものが存在しないのか?』と首を捻らざるを得ない。


何も感じない、内容が無い、何を言いたいのか解らない、そもそもこれに籠められたものなんてあるのか?


■TVアニメ版との差、そして総評
俺はこの【人形劇】を【見てしまった】後に、TVアニメ版のAIR第七話を観る機会に恵まれた。知り合いが『これでも観て心を癒してくれ〜』と気を利かせてくれたからだ。本気で感謝する。


あっちとは比べるべくもなく、雲泥の差どころの騒ぎじゃなかった。


間の取り方と構図、音楽と効果音の配置、キャラの仕草、表情、語らずに表情と間だけでキャラの心情を表現するのはAIRの良いところ、そこまでTVアニメ版では表しているように感じる。文字通り【空気感】が別物なのだ、劇場版はそんな【夏の空気】の欠片も無い。比べるべくも無い、むしろ比べられるべき土俵にすら上がっていない。
そんな【人形劇】。


例えるなら、【劇場版】は、見せられても子供が笑いもしなかった、【人形を金を稼ぐ道具としてしか見ていなかった頃の住人さんの人形劇】。
【TVアニメ版】は、観鈴を幸せにしたい、笑顔でいてほしいと願い、【不自由な身体ながら、懸命に観鈴を笑わせ続けた、そらの人形劇】。


『人形に心を籠めなさい』。


この台詞を劇場版の監督、又は脚本家に言いたいですね、僕は。